【第6回】木地師のふる里 蛭谷・君ケ畑
2024.3.11
滋賀県東近江市の「蛭谷(ひるだに)」・「君ケ畑(きみがはた)」は、鈴鹿山中の「小椋(おぐら)谷」にある山里で「木地師(きじし)」のふる里。この地から良材を求め全国の山に散っていった木地師の根元の地である。
木地師とは、木を切って「木彫り」や「ろくろ」を使ってお椀やお盆などの器類を作ることを生業とする人のこと。
随筆家である「白洲正子」もここを訪れ、著書『かくれ里』に綴っている。
中世湖東の近江商人が、「伊勢の国」に向かった鈴鹿山脈越えの古い街道である「八風(はっぷう)街道(421号線)」を東へと走り、「永源寺」を過ぎ永源寺ダム湖を左に見ながら、愛知川沿いを走り愛知川の支流との合流点を左折し、さらに川上に向かい分け入ると「政所(まんどころ)」という集落に入る。ここが木地師の故郷である「小椋谷」の入り口である。
2014年9月18日撮影
稲作中心の平地の村とは異なり、平地が少ない山間のこの地では、古くから谷の斜面で茶が栽培され「政所茶」として名が知られ、かつては幕府や朝廷にも献上されたほどの銘茶だそうだ。
2014年9月18日撮影
政所から先を進むと右手に切り立った崖がせまり、左手には目がくらむような深い谷を渓流が流れる。そしてさらに山道を行くと全国の木地師の発祥の地である「蛭谷」の集落に入る。
現在何軒かの民家が山肌に張り付くように建っているが、住んでおられるのは2世帯3人だけだとか。その内の一世帯のご夫婦は20年ほど前にここに移住され、木地師として工房「筒井ろくろ」を営んでおられる。
2014年9月18日撮影
木地師発祥の由来は、平安時代、文徳天皇の第一皇子の惟嵩親王(これたけしんのう)が皇位継承争いに敗れ、難を避けてこの谷に隠棲し、山の人たちに轆轤(ろくろ)与えて椀や盆を作る方法を伝授されたと伝えられている。
そしてここには、千年の歴史を示す木地師関連の資料や道具が整理された「木地師資料館」があり、予約をして見学することができる。
2014年9月18日撮影
これは「手挽き轆轤(ろくろ)」。
木地師は良材を求め山中を移動するのに便利な「手挽き轆轤」を使用し、妻が綱を引っ張って轆轤を回し、夫が独特のカンナで仕上げたそうだ。
2014年9月18日撮影
木地師には全国を自由に往来でき、山への立ち入り、山の8合目以上の原木は切り取り自由の特権を与えられていた。
これは、諸国の関所を自由に通れる通行手形。
2014年9月18日撮影
惟嵩親王が祀られている「筒井神社」。
こんな山奥の小さな集落に立派な「唐破風(からはふ)」の社殿、木地師の当時の財力が伺える。
2014年9月18日撮影
さらに山奥へと入ると「君ケ畑」の集落がある。
ここで小椋谷の地名が性の小椋昭二さんという方にお会いすることができた。
小椋さんは親父さんの代までこの地で製材所を営んでおられたのだが、現在は木地師発祥の地で「ろくろ工房 君杢(きみもく)」を営んでおられる。
突然に伺ったのだが、快く工房を見学させてくださった。
2014年9月18日撮影
小椋さんの作風は、木が持っている個性を生かしその良さを活かすために、削って磨くのみ、塗装など一切せず、木が持つ自然の光沢そのままで仕上げる手法。
2014年9月18日撮影
各種カンナも自ら手作りされている。
2014年9月18日撮影
御自宅の座敷が商品の展示場になっていて、そこで自家栽培されている大変おいしい茶をいただき、お互い木を扱う者同士話が弾んだ。
2014年9月18日撮影
そのあと集落内にある惟嵩親王を祖神とする「大皇器地祖(おおきみきちそ)神社」を案内してくださった。
境内には樹齢500年はあろうかと思われる杉の巨木が立ち、千年を超えるこの山深い地の歴史の深さを改めて感じた。
2014年9月18日撮影
帰りに立ち寄った惟嵩親王の御陵と伝えられている地に建つ惟嵩親王の象。
2014年9月18日撮影
<番外編>
「八風街道(421号線)」の愛知川の支流との合流点を左折せず、そのまま走ると左手に「池田養魚場」があり、そこでイワナ釣りとイワナ料理が楽しめる。
2018年11月15日撮影