【第11回】日本三大山城とその城下町
「日本三大山城」とは、奈良県高取町の「大和高取城」、岡山県高梁市の「備中松山城」、岐阜県恵那市の「美濃岩村城」の三つの城とされている。
私は、これまでにこれらの城とその城下町を巡っている。
「大和高取城」は、奈良盆地と吉野の間の山地にそびえる標高約584mの高取山にある山城。 南北朝時代に南朝方の越智氏により築かれ、その後戦国時代、豊臣秀長が大和郡山城の堅牢な詰め城として、江戸時代には城主となった植村氏によって大改修され完成した。 明治の新政府による廃城令により、天守をはじめ上物がとりこわされ、今は石垣を残すのみであるがその規模は広大である。 私は以前に車で途中まで行き、山の中腹から歩き城跡に行ったことがあるのだが、この時(2017年5月)は、ふもとの城下町「高取」から城跡へと歩き上った。
江戸時代、高取藩の城下町として栄えた「高取」は、道沿いに連子格子の古い街並みが続き、昔の面影を色濃く残している。
2017年5月撮影
高取は、城下町であると共に「薬の町」でもある。 歴史は古く飛鳥時代、推古天皇が聖徳太子や伴の者を従え、高取の山野で「薬狩り」を行ったと伝えられている。そして修験者によって「大和の薬」として全国に広められたのが「大和売薬」の起こりだそうで、その拠点となった町である。
この建物は診療所、立派な長屋門の一部は廃城となった高取城の門を再利用したものだとか。
高取の趣のある街並みを抜け、道は舗装道から山道へと入る。 うっそうと茂る杉・桧の林の中、道沿いに小川が流れひんやりとした気持ちのいい空気が漂う。
山道は、途中から急な坂が続く。 坂道を登りきると急に視界が開け、前面に西国三十三所第六番札所の「壷坂寺」が現れる。
壷坂寺の境内には、本堂・礼堂・阿弥陀堂・三重塔・天竺渡来大石像が建つ。 ここで一息つき、先へと道を進む。 道はちょっと舗装道を走り、「左五百羅漢のみち」の石塔を目印に左に折れ、杉の根があらわになった細い山道を登る。 すると山肌に現れたいくつもの巨岩に刻まれた無数の「羅漢(らかん)」の石仏群が現れる。 人一人いない山の中で無数の羅漢像と向き合っていると神秘的というより、聖者像とはいえ一種不気味さが漂う。
そしてようやく車道と合流する高取城跡の入り口に着く。 ここから20分ほど登って行くと生い茂る樹木の中に城の石垣が次々と現れる。
城内には実生(みしょう)から自然に育った巨木が茂り、永い歴史の流れを物語っている。
高取山の頂上に築かれた本丸跡からの南の眺めは素晴らしく、手前に吉野山、奥に大峰山、大台ケ原の山々を望むことができる。
「備中松山城」は岡山県高梁(たかはし)市にあり、標高430mに天守・二重櫓・土塀の一部が残り、現存する山城の中で最も高い所に建ち、重要文化財の指定を受けている。 2016年5月、JR伯備線の備中高梁駅からバスに乗り「ふいご峠(8合目)」まで行きそこから20分程きつい石段を登る。
2016年5月撮影
息をきらしてようやく石段を登りきると天空の城塞が現れる。
自然石をうまく利用した城郭で岩盤の上に石垣が積まれ、山城の特徴が現れている。
小ぶりの天守だが、漆喰の白が空の青と新緑の緑に映え、美しい姿を現している。
眼下に高梁の街が広がる。 その高梁の街に、石段を下り山道を歩き街へと向かった。
山城は、敵が来襲すると山上の城に立て籠もる、主に防御を目的とした城である。平時には城主は、不便な山城には住まず麓に住民と共に住む。そのために山城の麓には、城下町が形成される。 高梁の街も城下町として面影を色濃く残し、町もそれを誇りとして保存整備を行っている。 武家屋敷と土塀が残り保存整備されている「石火矢町」。このあたりには、上級武士が住んでいたようである。
武家屋敷の「旧折井家」。 当時の生活の様子がうかがえるように整えられ、資料も展示されている。
土塀の道を進んでいくと臨済宗の寺院である「頼久寺(らいきゅうじ)」がある。
頼久寺の庭園は江戸時代、備中国奉行として赴任していた「小堀遠州」が作庭した蓬莱(ほうらい)式枯山水の庭で国指定の名勝である。
武家屋敷の街並みから下っていくと、「うだつ」が上がり連子格子の商家が並ぶ街並みに出る。
商家の表の格子には、竹筒に花が活けられ、通りを歩く人の目を楽しませてくれる。
この時(2015年11月)は早朝に自宅を出、「明知(あけち)鉄道」の始発駅であるJR中央本線の「恵那駅」から「岩村城」のある「岩村駅」へと明知鉄道に乗り向かった。
「明知鉄道」は、昭和9年に国鉄明知線として開業し、昭和60年に第三セクターに引き継がれた全長25kmのローカル鉄道である。
2015年11月撮影
車両は、一両編成のディーデル機関車のワンマンカー。ディーデルエンジンの力強いひびきの中、運転手さんが冗談を交えながら名調子で沿線の案内をしてくれる。
六つ目の岩村駅で下車し「岩村城」へと向かった。
城跡にのびる本通りは、城下町の面影を色濃く残す商家が連続して並び、国の「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されている風情ある街並みである。
この建物は「旧勝川家住宅」、江戸時代末期に材木や米を扱った商家。
主屋は、江戸時代後期の建物で「通りニワ」を抜けると、ナマコ壁の蔵が3棟あり往時の繁栄が伺える。
なだらかな坂が続く城下町の街並みを抜けると「岩村藩主邸跡」に着く。
ここは城跡公園になっていて、城下に時を告げた「太鼓楼」や歴史資料館がある。
ここから石畳の坂道が、標高717mの城の本丸へと続く。
「岩村城」は鎌倉時代に築かれ、戦国時代には甲斐の「竹田信玄」と尾張の「織田信長」の抗争の接点地となり双方の激しい攻防戦が行われている。
ときの城主「遠山影任」が病死した後、その妻であった織田信長の叔母である「おつやの方」が采配した「女城主の城」としても知られている。
きつい石畳の坂道を息を切らして登って行くと「一ノ門」「大手門」跡が現れる。
そしてその先に六段の石垣の本丸が浮かび上がる。
この地方は、霧が多く城の周りに霧が立ち込めると雲海に浮かぶ「天空の城」となるそうで、別名「霧ケ城」とも言われている。
私は、2020年3月に孫二人を連れて「中山道美濃路」を行ったときにここを訪れている。
その時は一日中雨で、傘を差しての石畳を踏みしめての登りはかなりきつかったが、雨に煙る城跡は幻想的だった。
2020年3月撮影