【第16回】伊勢街道を行く―その1「日永の追分」から「松阪」へ
「伊勢街道」は、三重県四日市の「日永の追分」で「東海道」と分岐して、伊勢湾沿いを南下し伊勢へと至るおよそ十八里(72km)の街道である。
『伊勢に行きたい伊勢路が見たい。たとえ一生に一度でも』と伊勢音頭にも歌われ、多くの人があこがれた伊勢参り。
江戸時代には、人々が熱狂的に伊勢を目指した『おかげ参り』が50~60年周期で流行し、伊勢街道は、交通の大動脈である東海道に次ぐ交通量が多いにぎやかな街道であった。
そんな「伊勢街道」は、今も当時の面影が随所に色濃く残る趣のある街道である。
私は、2018年5月に「松阪」あたりから「斎宮」まで歩いたのをきっかけに、その後も伊勢街道にひかれ相棒である折りたたみ式の自転車に乗り何度か巡っている。

東海道を伊勢街道の分岐点である「日永の追分」には、現在小さな緑地が作られ、鳥居と「右京大坂道 左いせ参宮道」と彫られた道標と常夜灯が立つ。
そして道標の脇に湧き水で旅人ののどを潤す水飲み場がある。
2020年1月撮影


鳥居は、「伊勢」に向いて立ち東海道を江戸や京都に行く旅人が、ここから伊勢神宮を遥拝(ようはい)できるようにと江戸時代に立てられたものである。
2026年1月撮影

「日永の追分」の近くの東海道沿いには、木桶を使用し味噌・醤油を醸造している「伊勢蔵」がある。

追分から伊勢街道は、県道103号線を走り内部川(うつべがわ)を渡り土手を右に折れると街道は南に向け一直線に走る。

集落内の街道沿いに「庚申(こうしん)塔」がひっそりと8基立つ。
庚申は、邪気を払うために集落の入り口などによく置かれている。
2020年1月撮影

さらに進むと街道は、鈴鹿川を渡る。
2026年1月撮影

鈴鹿川の街道沿いに立つ常夜灯。

鈴鹿川を越えた集落の街道沿いに建ち並ぶ「切妻屋根」の家並みが美しい。

集落を抜けると田園風景が広がる。
背景の鈴鹿山系の山々は、うっすらと雪化粧。
2026年1月撮影

田園の中をしばらく走ると「神戸(かんべ)の見付」が現れる。
「神戸の見付」は、伊勢街道「神戸宿」の北の入り口にあたり、両側に土塁と石垣が築かれている。
ここには当時、町の治安を守るために番人がいて、夜間遅くには木戸を閉じて通行を禁じたそうである。
2020年1月撮影

「神戸の見付」から宿場に入ると、元は旅籠(はたご)であったと思われる民家が並ぶ。

その中でこの「旅館あぶい」は、現役の宿である。

ここ「神戸」は、伊勢街道の宿場町であるとともに「神戸城」の城下町でもある。
「神戸城」は、14世紀なかば「神戸氏」によって築かれた城で、戦国時代、織田信長の3男である信孝(のぶたか)を養子として迎え城主となった城である。
本能寺の変後、信孝の死により天守閣は解体され、石垣の一部が残るだけで今は公園になっている。
2026年1月撮影

ここから街道は、「白子(しらこ)宿」に向かって走る。
近鉄名古屋線の踏切を越えると「白子宿」に入り、宿場の北の端に地蔵堂が建つ。
ここには、鎌倉時代の作と推定されている「地蔵菩薩」が祀られ、土地の人々とともに伊勢街道を行きかう人々の信仰を集めた。
2020年1月撮影

「白子」は江戸時代、紀州藩(現在の和歌山県)領で紀州藩から江戸への荷物を運ぶ船の母港として、伊勢湾岸で最も賑わった港だそうである。

白子の町中には、当時の繁栄をしのぶ商家や連子格子の町家が今も点在し多く残っている。

ここ白子は、「伊勢型紙」の生産地で現在も99%のシェアーを誇る地である。
「伊勢型紙」とは、柄や文様を「柿渋紙」に彫り着物などの生地へ染めるために使われる型紙で、千年以上の歴史を誇る三重県の伝統工芸品である。
町中にある「伊勢形紙協同組合」では、その技術や作品を見ることができる。
またここでは、奈良県に次ぐ「墨」の生産地である白子の、これも伝統工芸品である「鈴鹿墨」のことを知ることができる。
2026年1月撮影

白子を後に街道をさらに進むと、「伊勢街道」と「巡礼道」の追分(おいわけ)にあたる。
「巡礼道」は、江戸時代、観音信仰で巡礼たちが通った道である。
そこに立つ「名残の松」。
2020年1月撮影

追分を過ぎると街道は、国道23号線と合流し、左手に三重大学を見ながら「江戸橋」を渡る。
ここは、「伊勢街道」と「伊勢別街道」との交差する追分で、角に大きな常夜灯が立つ。
これは、江戸時代に描かれた「伊勢参宮名所図会」の江戸橋付近。
2025年7月撮影

追分から少し進むと、右手に江戸時代後期の建築で津市指定文化財の「阿部家住宅」が目を引く。
「阿部家」は、味噌・醤油の醸造販売を営んできた商家。
「切妻造」の広い間口の両端には「うだつ」があがり、軒先に「おおだれ」と呼ばれる雨除けの板がつく立派な建物である。

街道は、津駅前を過ぎると安濃川を渡り23号線を走る。
この付近の西側は、津市役所などがある行政の中心で、そこに「津城跡」がある。
「津城」は、織田信長の弟である織田信包(のぶかね)が城を築き、のちに藤堂高虎が大規模改修を行い城下町を整備し、藤堂家が明治維新まで治めた城である。

次に岩田川を渡り1kmほど走ったあたりからは、街道筋には「平入り」で格子が特徴的な古い町家が連続あるいは点在し残る。

その中に「ヤマニ酢」の看板がかかった黒塗りの建物と裏には蔵があった。
2025年7月撮影

そして、少し行くと小さな川に欄干の側面に松・扇・梅が浮き彫りにされた「思案橋(しあんばし)」という小さな石橋が架かる。
この橋の近くに遊郭があったそうである。
2018年5月撮影

街道をさらに進むと家並みが途絶え、視界が開け田園風景が広がる。
そして街道は、「雲出川」に架かる雲出橋を渡る。
当時は橋が無く、少し下流に「渡し」があったそうだ。

渡った先の街道沿いに「松浦武四郎生誕の家」があり見学も出来る。
「松浦武四郎」は、幕末6度にわたり蝦夷地(北海道)の探検をおこない、明治維新後は蝦夷地開拓に関わり『北海道の名付けの親』として知られている。
2025年7月撮影

「松浦武四郎」は、アイヌ民族との交流を深めその文化を尊重したそうで、生家の仏間に置かれていた松浦武四郎の写真の首には、アイヌの首飾りが架けられていた。

そこから少し進むと、「伊勢街道」と「奈良街道」が合流する「月本追分(つきもとおいわけ)」があり道標と常夜灯が立つ。
以前ここに来た時には、常夜灯の後ろ側に「角屋」という元旅籠の建物があったのだが、2025年7月に再来したときは、建物は解体され更地には売地の看板が立っていた。
改めて2018年5月に撮った写真を見ると、「角屋」の建物が写っていた。
2018年5月撮影

そこからさらに2kmほど走り「三渡川」を渡ると、今度は「伊勢街道」と「初瀬街道」が合流する「いがごえ追分」がある。
そしてこの辺りから街道は、「市場庄」の街並みに入る。
ここには伊勢地方に多い町家の建築形態である、建物の妻側に玄関がある「妻入り」の大型で立派な民家が軒を連ね、玄関先には当時の「屋号」が書かれた札が架けられている。
「市場庄」の街並みは、国の重要伝統的建築群保全地区に選定されてもいい素晴らしい街並みである。
2018年5月撮影

2025年7月撮影

この蔵は、『よねぎん』という屋号の味噌・醤油の蔵。

市場庄の街並みを抜け、先を進むと街道はクランク状になっていて、そこに小さな常夜灯・役行者(えんのぎょうじゃ)の行者堂・山ノ神2基が祀られている。

さらに進むと街道の両側に広大な屋敷があらわれ、そのうちの一つの屋敷には「なまこ壁」の立派な「長屋門」がある。
市場庄を含むこの辺りは、よほど裕福な土地柄であったようである。
2018年5月撮影

そして街道は、いよいよ「松阪」の中心部に入る。
「阪内川」を渡った所に豪商であった「旧小津邸住宅」が建つ。
2025年7月撮影

主屋は、江戸中期に建てられたもので、明治以前の姿に修復され近世の商家の建築様式がうかがえる質の高い建物である。
現在は、「松阪商人の館」として公開されている。
2018年5月撮影

三重県の「松坂」といえばブランド牛「松坂牛」が有名であるが、2018年5月に初めて伊勢街道を「松阪」あたりから「斎宮」まで歩いた昼飯時、食欲を誘うにおいにひかれ伊勢街道沿いの「かしわ焼肉トリユウ」という店に入り、そこで初めて「松坂鶏焼き肉」を食べた。
「松坂鶏焼き肉」は、ニンニクが入った甘辛い味噌ダレで、鶏を網焼きし食べる松坂のソウルフードで安価であることもあり庶民に親しまれている。
松坂にはその専門店が20店舗ほどあるらしい。
私は、「松坂鶏焼き肉」のファンになり、松坂方面に来たときの楽しみの一つになっている。
2018年5月撮影











