【第10回】初瀬街道を行く
『伊勢に行きたい伊勢路が見たい、せめて一生に一度でも』と唄われた「伊勢音頭」、江戸時代の庶民が夢にまで見た「お伊勢参り」。
その伊勢に詣でる道はいくつかあるが、その一つが「初瀬街道」で、古くは「青山越」とも呼ばれた。 「初瀬街道」は、奈良県桜井市の「初瀬(はせ)」から三重県の「名張」を経て「青山峠」を越え、松阪市「六軒」で「伊勢街道」と合流する、京・大和方面と伊勢を結ぶ道である。
古代には、「壬申の乱」の際、「大海人皇子」が名張に至った道であり、また天皇に代わって伊勢神宮の「天照大神」に仕えた「斎王(さいおう)」が伊勢へとおもむいた道でもある。
奈良県桜井市初瀬には、真言宗豊山派の総本山で西国三十三所観音霊場第八番札所として信仰を集めている「長谷寺」があり、その門前を初瀬街道が走る。
2024年1月17日撮影
長谷寺は、一年を通じ「花の寺」としても親しまれ、冬場は「寒牡丹」「冬牡丹」が有名でワラで編んだ傘に覆われた牡丹がこの時期の風物詩である。
長谷寺から街道は、165号線に沿って峠道を行き宇陀市榛原の「萩原宿」に入る。
「萩原宿」には、「初瀬街道」と「伊勢本街道」との分岐点(札ノ辻)があり、そこには『右いせ本かいどう 左あおこ江みち』と彫られた道標が立つ。
2023年2月17日撮影
道標の向かいには、明治10年頃まで旅籠(はたご)として営業していた「あぶらや」が建っている。 ここには、伊勢の国松坂出身の江戸時代の国学者である「本居宣長(もとおりのりなが)」が泊まった記録などがあるそうだ。
「萩原宿」の札ノ辻から街道は西に折れ、国道165号線を越えたあたりから風情ある街並みが続く。
2016年6月4日撮影
その一角にツキデ工務店が2009年に再生工事をさせていただいたN様邸住宅がある。
街道は途中で並行して走る国道165号線に交わり、「天満台東口」というところを右折すると、室生ダム沿いに整備された緑地広場がある。その一角に自然石に彫られた「ぬれ地蔵」祀られている。裏山からの水が落ち濡れていることからその名が付けられ、ダムが増水すると裾まで水没するそうだ。
初瀬街道とほぼ並行して近鉄大阪線が走り「室生口大野駅」付近にも風情ある民家が結構残っている。
このあたりから街道は、山道を上り小さな峠を越え、下っていくと「三本松宿」に入る。 ここには、元旅籠の「ますや」の建物などが残り宿場の風情が今も感じられる。「ますや」の端に建つ道標には、『是より西 萩原二里六町』と『是より東 名張二里十二町』と刻まれ、ここが「萩原」と「名張」の中間であることを示している。
先に進むと街道は、宇陀川沿いを走り「鹿高」という集落の中を行く。その集落内にある民家の玄関の「差し鴨居」に、八十八才と名前が記された「しゃもじ」が掛けられていた。これは、この地方の習わしで八十八才の「米寿(べいじゅ)」に、手形としゃもじに名を書き玄関の「差し鴨居」に掲げ、長者を尊び祝う風習だとか。
名張川に囲われた町「名張」は、街道の宿場町として旅籠をはじめ大名や家臣が泊まる本陣や脇本陣もあったらしい。また名張藤堂家の御殿があり、周辺には武家の家もあったそうで、初瀬街道の宿場町としても当時最も家屋・人口数が多く賑わった町であった。
街道筋には、薬商の「細川家」をはじめ当時の面影を残す古い町家が点在する。
2016年6月6日撮影
この商家は、文政元年(1818年)創業の屋根付きの「杉玉」が吊るされた造り酒屋の「木屋正酒造」。国の登録有形文化財に登録されている。
「名張」をすぎ、近鉄大阪線の美旗駅あたりに「新田宿」の集落がある。ここも幕末から明治にかけて旅籠・商家が並んでいたそうで今も古い街並みが残っている。その街並みの一部の町家や蔵は、道路と平行ではなく角度をつけてふり、ノコギリの歯のように建ち並ぶ。このような街並みは以前、たしか木曽中山道の「奈良井宿」や紀州の「黒江」でも見かけたが、何のためなのか?
この辺りから街道は、並行して走る近鉄大阪線を離れ、ため池が多い丘陵地を行き、次の宿場「阿保(あお)宿」へと向かう。
「阿保宿」に入ると大きな常夜灯が目に入る。この常夜灯は、村の安全を祈り、お伊勢参りの道しるべとして安政7年(1860年)に建てられたもの。
2016年6月12日撮影
ここ「阿保宿」も江戸時代、「名張」と同様に藤堂藩から商いを許され、商家が軒を並べ賑わった町である。なかでも「たわらや」は、300年前から昭和中頃まで旅館を続けていたそうで、改修し今は「初瀬街道 交流の館」として「参宮講(こう)」の看板をはじめ街道遺産などが保存・展示されている。
2016年7月3日撮影
「参宮講」とは、伊勢参宮を目的とし、集団で旅費を積み立て、くじで代表を選んで集団参詣する仕組みのこと。そしてどの「講」も道中で泊まる定宿を定めていて、定宿には講名を記した看板がおかれていた。
そして「阿保宿」から西に4km程行くと街道は伊賀「伊勢地宿」に入る。「伊勢地宿」は、初瀬街道最大の難所といわれる「青山峠」の西麓の宿場で、大和屋・徳田屋・角屋など20軒ほどの旅籠が街道沿いに軒を並べ、毎夜何百人もの泊り客があったと言われている。
「大和屋」という屋号の大きな元旅籠。
2016年7月3日撮影
宿場の中央には、文政11年(1828年)と彫られた常夜灯が建っている。
さてここから街道は、初瀬街道最大の難所といわれる「青山峠」を越え、東麓の「垣内(かいと)宿」へと向かう。ところがこの時期各地で「クマ出没」のニュースが流れていたことと、7月初めの炎天下に歩いての峠越えはちょっときついと判断し、最寄りの近鉄大阪線の「伊賀上津駅」から乗り、二駅目の「東青山駅」で降り、青山峠の東の入り口にあたる宿場「垣内(がいと)宿」に向かった。
「垣内宿」は、青山峠から下ってきた谷間の集落。 集落内には清流「垣内川」が流れ、青山峠を越えてきた旅人はこの風景にさぞかし癒されたことであろう。
2016年7月3日撮影
江戸時代末期、「垣内宿」には戸数70戸以上あり、旅籠は常時300人以上収容能力があったと言われ、屋号も30数戸が知られている。
「垣内宿」の民家の玄関先には、屋号入りの暖簾が架けられている。
「垣内宿」を後に進むと、街道は大村川沿いの小さな集落を抜けるように走る。集落内には、朱塗りの橋が印象的な古刹の「成願寺」がある。
「成願寺」は、伊勢の国司であった北畠氏の家臣であった新長門守が、比叡山で修業した真盛上人に帰依し、戦死した長男らの菩提を弔うために建造したと伝えられている天台真盛宗の中心寺院である。
2022年3月10日撮影
さらに街道を進み「二本木宿」の手前で見かけた「浦上キリシタン収容所跡」の立て札。江戸時代、キリスト教は禁止されていたわけだが、当時長崎のキリシタン3,000人が全国に流罪となり、津藩も155人を預かり、そのうちの75人がここ二本木の旧代官跡に収容されたとのこと。
やがて街道は、「二本木宿」に入る。宿場内の二階の全面が連子格子のこの建物、以前は旅籠であったという屋号が「丁子屋」という醤油の醸造元。もっと以前は薬種問屋を営んでいたと説明書きにあった。
「二本木宿」を過ぎさらに進むと視界が開け、街道は出雲川沿いの桜並木の道を走る。 この桜並木は、当時、村の人たちが旅人の心を癒すために植えられたものだそうだ。
2022年3月10日撮影
そして「八太宿」に入る。「八太宿」では街道は、「七曲り」し左折右折を繰り繰り返す。宿場内には、元旅籠であったらしき建物を一つ見つけたが宿場の昔の面影はさほど残っていない。
2019年4月13日撮影
「八太宿」を抜けると街道は一直線に集落内を抜け、その後、麦畑が広がるのどかな風景のなかを走る。そして次に「嬉野(うれしの)宮古」の集落に入る。
この集落は「忘れ井」の里とも呼ばれている。
平安時代、白河天皇の皇女が四十六代「斎王」として伊勢へ群行する途中、この地で井水を求められて自分の心の迷いを鎮め、二度と都の方を振りかけることなく一首詠み「忘れ井」と名付けられたと伝えられている。
「わかれゆく都のかたの恋しさに いざむすび見む忘れ井の水」
「斎王(さいおう)」とは、天皇に代わり伊勢神宮に仕えるため派遣された未婚の天皇の娘である皇女のこと。天皇の即位ごとに選ばれ、崇神天皇の皇女が初の「斎王」で南北朝時代の後醍醐天皇の代まで続いたそうだ。
近鉄山田線の斎宮駅の北側に広大な敷地の「斎王」が住む御所である「斎宮(さいぐう)跡」がある。この写真は「伊勢街道」を行ったときに撮った斎宮の1/10のジオラマ。
2018年6月24日撮影
そして街道は、三渡川の気持ちがいい土手道を走り、ようやく伊勢街道との合流点、「六軒追分」に到着する。
2019年4月13日撮影
江戸時代「お伊勢参り」の参宮者でにぎわった初瀬街道は、街道沿いには趣のある街並みや名所旧跡が多く残る魅力的な街道である。私は好きで三重県作成の「みえ歴史街道ウォーキングマップ」を片手に幾度となく訪れ「ブログ」でも紹介している。
街道と並行して近鉄大阪線が走っていることもあり、歩いて「初瀬街道を行く」のも行きやすい。「嬉野宮古」集落を出て、中村川を越えたあたりの街道の春の風景。
2019年4月13日撮影