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100年前に移築された京町家再生

この建物は、淀川左岸を京都から淀を経て大阪の京橋へと続く「京街道」の「枚方宿」の東に建ちます。その枚方宿でご先祖が、商いをされていたのですが、ある時期京都に移り住まれ、その後明治37年に、京都の町家を移築し家ごとこの地に戻ってこられたという歴史のある建物です。
そして112年後の今、後世に残していきたいというご当主の思い出で、この度、伝統工法で再生工事をさせていただきました。
力強い丸太梁がかけられた「通り庭」の「火袋」や梁を表しにした「大和天井」など、京町家の特徴を生かしながら、耐震補強や住みやすさも考え再生しました。

■ひらかた京町家 HP

https://kyomachiya-hirakata.jp/

100年前に移築された京町家再生

100年前に移築された京町家再生

門からのアプローチも石や植栽などできるだけ今あるものを利用し作庭しました。

100年前に移築された京町家再生
主屋と離れ
100年前に移築された京町家再生
100年前に移築された京町家再生

改修前の東側外観

100年前に移築された京町家再生

改修後の東側外観

100年前に移築された京町家再生
改修後の西側外観
100年前に移築された京町家再生
移築された時「客人玄関」が造りかえられ、その後ある時期「居室」に変えられた箇所を「客人玄関」に戻しました。
100年前に移築された京町家再生
以前「客人玄関」にあった小さな「床の間」はそのまま生かしました。
100年前に移築された京町家再生
客人用玄関の下駄箱とトイレの戸は、赤杉の柾板の「たて舞良戸」です。
100年前に移築された京町家再生
「家人玄関」の「格子戸」の内側には、「大戸」があり、そこには「くぐり戸」あります。家人玄関横の「みせの間」には、元は「出格子」があったようで、柱にその痕跡がありました。
「無双窓」付の片引き戸がある門と表の庭
100年前に移築された京町家再生

「みせにわ」の天井は「大和天井」です。正面には格子の「大戸」があり、ここにも「くぐり戸」があります。左側の「みせの間」の建具は、元の客人玄関にあった建具を再利用しました。

100年前に移築された京町家再生

「みせのま」

100年前に移築された京町家再生
改修前の「はしりにわ」には、いつの時代か床板が張られ、レンガ積みの「おくどさん」とタイル張りの「はしり(流し)」ありました。
100年前に移築された京町家再生
改修後の「はしりにわ」。「火袋(吹抜け」に架けられた力強い松丸太。
100年前に移築された京町家再生
「はしりにわ」からつながる「だいどこ」。家族はここで食事をしていました。
100年前に移築された京町家再生
耐震補強のために新設した耐力壁の一部の「竹木舞下地」は、あえて土を塗らずに「表し」にしました。また「だいどこ」の天井板をはがし、採光を得るために吹き抜けとしました。
100年前に移築された京町家再生
「大黒柱」についている「つい立て」は、「嫁かくし」といいます。これ以上は家人の許可がなかったら入ってこないでというしるしです。
書院には「火灯窓」があります。
1階の座敷。写真の左側の縁側は、移築時は「床の間」でした。ある時期に南側からの採光を得るために妻側の「側柱」を残したままアルミサッシの掃出し窓を設け縁側がつくられました。
100年前に移築された京町家再生
今回、アルミサッシを取り除き以前別の場所で使われていた古建具を再利用しました。
保管されていた以前の床の間に使われていた一間半のケヤキの床板を再利用して新たに床の間を反対側に設けました。
もっとも痛みが激しかった風呂、便所がある水回り。
改修後
もっとも痛みが激しかった風呂、便所がある水回り。
改修後
新たに設けた壁は、「通しぬき」の「竹木舞下地」で荒壁塗の伝統工法で仕上げています。

小屋裏に隠れていた「登り梁」を「表し」ました。

「火袋」に架けられた力強い松の丸太梁

2階の座敷の前の「次の間」。ここには改修前には「客人玄関」から続く客人用の階段がありました。
2階の10畳の座敷
座敷前の縁側。改修前は建具が無かったのですが、ガラス戸を設け室内に取り込みました。
100年前に移築された京町家再生
主家と蔵、納屋に囲まれた中庭も建物と溶け合い、周辺にマンションが立ち並ぶ市中にあって別世界の様相です。
100年前に移築された京町家再生
歳月を積み重ねなければつくり出せない味わいや先人の知恵、技もかいまみることもできる建物です。